(ツーリング出発地点 糸山公園から眺めた来島海峡大橋)
オヤジです。
みなさん、神話にかかわる神社をご存知ですか。
今回は、しまなみ海道の島に鎮座する神話にかかわる神社へ、久しぶりにバイクツーリングで行くことにしました。
出発地点は、来島海峡大橋が一望できる愛媛県今治市にある糸山公園
西瀬戸自動車道、通称しまなみ海道へ今治北インターチェンジから流入し、芸予諸島の大島、伯方島の島々を経て、目的地、『大三島』に向かいました。
- はじめに
- 【大山祇神社参拝情報】
- 日本神話にかかわる神々、大山祇神社の御祭神
- 『大山積神』を祀る古社『大山祇神社』の由緒と宝物
- 大山祇神社境内
- 大山祇神社宝物館『武具類』国宝・重要文化財の8割を収蔵❢ 大山祇神社宝物館(紫陽殿・国宝館)
- 昭和天皇ゆかりの大三島海事博物館(葉山丸記念館)
- まとめ
はじめに
日本の神話は、『古事記』『日本書紀』『風土記』に紹介され、多くの神々が登場しています。
その神話にまつわる神々が御祭神として祀られ、長い歴史を経て現在の神社として至っています。
そんなパワースポットである神話にかかわる古社(神社)が意外にも身近なところにひっそりとあったんです。
今回は、ツーリング先であるしまなみ海道で最も大きな島「大三島」に鎮座する神話にかかわる古社『大山祇(おおやまづみ)神社』をご紹介します。
(大山祇神社二の鳥居を見た全景、ちなみに一の鳥居は、参道を下った徒歩約10分の宮浦港にあります。)
【大山祇神社参拝情報】
【大山祇神社所在地】
所在地 愛媛県今治市大三島町宮浦3327
電話 0897-82-0032
【交通アクセス】
《マイカー》
しまなみ海道大三島インターチェンジで流出、最初の信号を左折して案内表示に従い、道なりに所要時間約10分
《公共バス》
大三島バスストップから瀬戸内海交通バス(宮浦港行き)に乗車、大山祇神社前にて下車、所要時間約10分
大三島バスストップまで
広島県側 JR福山駅からしまなみライナー(高速バス)で所要時間約50分
愛媛県側 JR今治駅から瀬戸内海交通バスに乗車、大山祇神社前まで、所要時間約60分
【駐車場】
神社北側に市営藤公園前無料駐車場、しまなみの駅御島無料駐車場があります。
【参拝ガイド】
境内の参拝は自由
神門内の参拝は、日の出頃~午後5時
祈祷等の受付は、午前9時30分~午後4時
授与所は、午前9時~午後5時
日本神話にかかわる神々、大山祇神社の御祭神
『古事記』『日本書紀』『風土記』等の神話を専門家が解釈する際でも諸説あるようですが、大山祇神社の御祭神を知るうえで、まずは、日本神話にかかわる神々の系譜の概略をざっくりと理解した方が分かりやすいかと思います。
『別天津神(ことあまつかみ)』
古事記では、天地の開けはじめの際に最初に現れたのが『造化三神(ぞうかさんしん)』と呼ばれる3柱の神で、その後2柱の神が生まれ、この5柱の神々を『別天津神(ことあまつかみ)』と言われているそうです。
いずれにしても、この後生まれる『神代七代(かみよななよ)』より先だって生まれた尊貴な神々というような位置づけのようです。
『神代七代(かみよななよ)』
『別天津神(ことあまつかみ)』の後に現れた7世代12柱の神々が『神代七代(かみよななよ)』と呼ばれています。
この『神代七代(かみよななよ)』とは、『国之常立神(くにのとこたちのかみ)』から国生み・神生みの神である『伊邪那岐神(いざなぎのかみ)』、『伊邪那美神(いざなみのかみ)』までの神々とされています。
『天照大御神』の兄神、大山祇神社御祭神『大山積神』
この国生み・神生みの神、男神『伊邪那岐神(いざなぎのかみ)』、女神『伊邪那美神(いざなみのかみ)』から生まれた神々の中の1柱が『大山津見神(おおやまつみのかみ)』とされています。
古事記では、『大山津見神』、日本書紀では『大山祇神』、伊予国風土記では『大山積神』と表記されているそうです。
そして、女神『伊邪那美神(いざなみのかみ)』が亡くなった後、男神『伊邪那岐神(いざなぎのかみ)』から生まれた3柱の神々が、『天照大御神(あまてらすおおみかみ)』『月読命(つくよみのみこと)』『須佐之男命(すさのおのみこと)』とされているようで、大山祇神社の御祭神『大山積神』は、『天照大御神』の兄神とされています。
『大山積神』の系譜
『大山積神』から生まれた姫『木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)』(古事記表記)は、『天照大御神(あまてらすおおみかみ)』の系譜で、高天原から高千穂に降り立ったとされる天孫『邇邇芸命(ににぎのみこと)』(古事記表記)と結ばれ、その系譜がやがて初代『神武天皇』へと繋がっているとされているようです。
ですから、『大山積神』、『木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)』ともに神話の中で、あまりクローズアップされていないようですが、神話の世界の神々の中で重要なポジションにいたことは間違いないようです。
参考 最新学説で読み解く日本の神話 発行所/株式会社宝島社
『大山積神』を祀る古社『大山祇神社』の由緒と宝物
『大山積神』を祀る大山祇神社の二の鳥居を潜って境内に入りますと、右手側に大山祇神社の由緒を記載した案内板があります。
また、授与所や宝物館で販売されている大山祇神社発行の書籍にその「由緒と宝物」についての案内文があります。
大山祇神社を知るには、この由緒等を知る必要があるかと思いますので、ここでその書籍から引用してご紹介しておきます。
日本総鎮守 大山祇神社の由緒と宝物
大山祇神社は、瀬戸内海のなかでも特に景勝の地である芸予海峡の中央に位置して大小の島々に囲まれた国立公園大三島(名勝地・国指定)に、日本最古の原始林社叢楠群(天然記念物、国指定)に覆われた境内に鎮座している。
御祭神は、大山積大神一座で、天照大神の兄神に当らせられる。天孫瓊々杵尊御降臨の際、大山積大神またの名、吾田国主事勝国勝長狭命(大山積の擬神)は、女木花開耶姫命を瓊々杵尊の后妃として国に奉られたわが国建国の大神であらせられるが、同時に、和多志大神と称せられる地神・海神兼備の霊神であり、日本民族の総氏神として古来日本総鎮守と御社号を申し上げた。
大三島に御鎮座は、神武天皇御東征のみぎり、祭神の孫・小千命が先駆者として伊予二名島(四国)に渡り瀬戸内海の治安を司どっていた時、芸予海峡の要衝である御島(大三島)に鎮座したことに始まる。
本社は、社号をを日本総鎮守・三島神宮と称せられ歴代朝廷の尊崇、国民一般の崇敬篤く奈良時代までに全国津々浦々に御分社が奉斎せられた。
『延喜式』には名神大社に列し、伊予国一の宮に定められたが、官制に依り国幣大社に列せられた四国唯一の大社である。
また、内海には水軍が伊予・讃岐・安芸・播磨・周防の五ヶ国に置かれた事は、『日本書紀』の『景行記』に見えているが中心は伊予の水軍であり信仰は大三島の神であった。
日唐戦争には越智大領守興が三島水軍を率いて出陣し、純友の乱には、越智押領使好方が錦旗を押立て出陣した。
下って源平合戦には、河野通信が源義経を助けて戦い、弘安4年(1281)の元寇の乱には、河野通有が三島水軍を率いて当社に参籠祈願し、神助によって大勝を得た。
南北朝時代の建武中興には祝彦三郎安親が、九州探題北条時直の大軍を内海に滅して忠勤するなど、神社を中心とした三島水軍の活躍は国政を左右する程の勢力であった。
戦勝の御礼に源義経、源頼朝始め河野家を中心とした人々が神社へ奉納した甲冑、刀剣その他の美術品は数が多く、中でも武具類は全国の国宝、重要文化財の八割を有し、全国神社に類例を見ない一大宝庫となっている。
出典元 大山祇神社改訂版④ 平成27年4月 編集・発行/大山祇神社
この「由緒と宝物」についての案内文を読むだけで、大山祇神社という古社が、長い歴史の中で重要な役割を担いながらも、ひっそりと島に鎮座していることがうかがえるかと思います。
大山祇神社境内
『斎田』
道路に面した二の鳥居をくぐってすぐ右側には、『斎田』と呼ばれる水田があります。
五穀豊穣を祈願する神事として旧暦の5月5日に御田植祭(おたうえさい)、旧暦9月9日に抜穂祭(ぬきほさい)が行われます。
その際、まわしを締めた力士による一人角力が奉納されています。
相手は稲の精霊とのことですが、3番勝負して、毎回、2勝1敗で精霊の勝ちとなり、毎年豊作となるようです。
この神事は、毎回、地方ニュースで放映されます。
二の鳥居から見た総門の様子
総門
総門は、1322年に焼失したとされているようですが、平成23年に室町時代の古図をもとにして再建された比較的新しい門です。
能因法師 雨乞いの楠(日本最古の楠)
総門を過ぎてしばらく進むと左手に天然記念物『能因法師雨乞いの楠』があります。
後冷泉天皇の御代(約900年前)に伊予国守藤原範国が、能因法師を使者として祈雨のため参拝させたそうです。
能因法師は、その時、大山積神に祈りを捧げ、「天の川苗代水にせきくだせ天降ります神ならば神」と一首詠み和歌を奉納すると伊予国中に三日三晩雨が降ったと伝えられているそうです。
その和歌を奉納した楠がこの日本最古の楠(樹齢約3000年)と言われているそうです。
小千命(おちのみこと)御手植の楠
総門をくぐって境内を真っすぐ進みますと、大山祇神社の御神木として境内中央に植えられた楠で国指定の天然記念物があります。
この御神木は、大山積神を御島(大三島)に勧請された小千命(おちのみこと)によって植えられたと伝えられています。
伊藤博文公が参拝記念で植えられた楠
境内中央の御神木を過ぎて、神門の方に進みますと神門手前石段の左脇に伊藤博文公が参拝されたときに記念に植えた楠があります。
伊藤博文公が参拝されたのは、1909年(明治42年)3月21日だそうです。
神門
神門から見た拝殿
神門から見た拝殿前境内左方の様子
神門から見た拝殿前境内右方の様子
正面から見た拝殿の様子
現在の拝殿は、1427年(応永34)頃の建造のようです。
豪華さはありませんが、長い歴史を感じる拝殿です。
拝殿内も外観と同様で、古色に満ちた威厳のある趣です。
私自身も過去3回、この拝殿で御祈願を受けたことがあります。
拝殿右側「授与所」の御籤の様子
拝殿右側の授与所脇を杜の方に向けて通り抜けると、国宝の島と言われる所以となった宝物が収蔵されている「宝物館」に行くことができます。
橋の奥にあるのが、宝物館の入り口になります。
一遍上人奉納の『宝篋印塔(ほうきょういんとう)』
橋の手前すぐ左側に『宝篋印塔(ほうきょういんとう)』があります。
1318年(文保2) に建立されたとのことで、拝殿奥にある本殿と本殿の両脇にある上津社、下津社を表現している宝篋印塔(ほうきょういんとう)だそうです。
この宝篋印塔は、時宗の開祖、一遍上人が本殿再建の祈りを込めて建立、奉納したと伝えられています。
一遍上人は、壇ノ浦の合戦で活躍した河野水軍の大将河野通信の孫にあたり、大山祇神社とは深いゆかりがあるそうです。
大山祇神社宝物館『武具類』国宝・重要文化財の8割を収蔵❢ 大山祇神社宝物館(紫陽殿・国宝館)
大山祇神社宝物館
大山祇神社宝物館への入口の様子です。
入口向かって左側の売り場で拝観券を販売しています。
おとなは、拝観料1000円です。
宝物の山を拝見すると、決して高くはありません。むしろ安い位だと思います。
大山祇神社へ参拝する際は、宝物館の拝観も是非おすすめします。
大山祇神社宝物館の入り口から入りますと、正面に見えるのが海事博物館、左側に見えるのが宝物館になります。
大山祇神社宝物館は、紫陽殿と国宝館のつながった2棟を合わせて宝物館と呼ばれています。
宝物館(紫陽殿)正面の様子
宝物館(紫陽殿・国宝館)は写真撮影が禁止となっておりましたので、残念ですが中の様子をご紹介することができません。
この宝物館には、国宝が8件、重要文化財が132件があるようです。
中でも、甲冑の所蔵は全国一だそうです。
日本最古の平安中期の鎧をはじめ、鎌倉期から戦国時代までの各時代の宝物が収蔵されています。
甲冑もさることながら、私自身が一番惹かれたのは、大太刀、なぎなた等の刀剣類です。
正直言って度肝を抜かれたのが、大太刀の大きさ(長さ)でした。
こんなに大きな大太刀をどうやって一人で振り回せるのだろうかと思いました。
また、武蔵坊弁慶や源義経のなぎなたもとても素晴らしいものでした。
参考までに、武道家であり刀剣の研ぎ師である私の知人の言によれば、ほとんど研ぎ直しのされていない刀剣類が収蔵されており、そのような刀剣類を拝観できるのはほとんどなく、とても貴重だそうです。
鎧などについては、退色を防ぐために、照明は、普段は消灯され、拝観時に点灯するようになっており、室内はかなり薄暗い感じで、明るいところで見えなかったことが残念でしたが、歴史的な宝物の保護のためにはやむを得ないことだなと感じました。
ですから、大手百貨店のイベントで『〇〇国宝展』というような展示会がよく催されていますが、そういった明るい場所で行われるような煌びやかな展示ではありませんので、そのようなものを期待して拝観すると少しがっかりするかもしれません。
国宝8件
宝物館には、国宝8件、重要文化財132件が収蔵されているそうです。
あまりにも数が多く、また写真撮影もNGでしたので、国宝の品目だけでもご紹介しておきます。
【鎧・兜】
1 赤絲威鎧(あかいとおどしよろい)・大袖付
(伝源義経奉納)平安時代
2 紫綾威鎧(むらさきあやおどしよろい)・大袖付
(伝源頼朝奉納)鎌倉時代
3 紺絲威鎧・兜(こんいとおどしよろい・かぶと)・大袖付
(河野通信奉納)平安時代
4 澤瀉威鎧・兜(おもだかおどしよろい・かぶと)・大袖付
(越智押領使好方奉納)延喜時代
【刀剣類】
5 大太刀(おおだち) 身長136.0㎝
銘 貞治五年丙午千手院長吉(じょうじごねんひのえうませんじゅいんながよし)
(伝後村上天皇奉納)南北朝時代
6 牡丹唐草文兵庫鎖太刀拵(ぼたんからくさもんひょうごくさりのたちこしらえ)
総長96.0㎝ (伝護良親王奉納)鎌倉時代
7 大太刀(おおだち) 身長180㎝
無銘 伝豊後友行作 (大森直治奉納)南北朝時代
【鏡】
8 禽獣葡萄鏡(きんじゅうぶどうきょう)
中国唐時代 白銅製 径26.8cm 縁厚1.7cm (伝斉明天皇奉納)
『鶴姫』伝説
国宝館には、「紺糸裾素懸威胴丸(こんいとすそすがけおどしどうまる)」 という小さくて女性の体形にフィットするような目を引き付ける鎧が展示されています。
大山祇神社の大祝職に就いていた祭祀をつとめていた大祝家に生まれた『鶴姫』は、戦国の世、16歳の若い女性でありながら、三島水軍を指揮し、周防守護・大内義隆の軍勢に立ち向かって勝利に導いたそうです。
この伝説のヒロイン『鶴姫』 にゆかりがある鎧だそうです。
写真は、大山祇神社と宝物館の間にある路地に建てられている『鶴姫』の銅像です。
決して目立ちはしませんが、古くから女性が活躍していたことを表す一例です。
大三島では、毎年7月、「三島水軍鶴姫まつり」が行われ、瀬戸内のジャンヌ・ダルクと言われる勇敢な乙女である『鶴姫』を偲んでいます。
昭和天皇ゆかりの大三島海事博物館(葉山丸記念館)
宝物館への入口を入ると正面に見えるのが大三島海事博物館(葉山丸記念館)です。
ちょうど宝物館の隣にあり、昭和46年4月に開館したそうです。
採集船『葉山丸』
この大三島海事博物館には、昭和天皇が、海洋生物のご研究のためご使用になられた採集船『葉山丸』が永久保存されています。
このことは、意外と知られていません。という私も、初めて訪れるまでは、全く知りませんでした。
海事博物館の入り口から入りますと、ちょうど中央にその『葉山丸』が展示されています。
この採集船は、昭和9年に天皇陛下の専用船として横須賀の海軍工廠(かいぐんこうしょう)で建造された長さ15m余り、幅4mあまり、約13トンの木造船です。
展示されている採集船を見る限りでは、船体の外観は白色、船底は赤色に塗られ、操舵室の窓は二階(2段)になっていました。
当時としてはどうなのかわかりませんが、きらびやかな派手さは一切なく、どちらかと言えば装飾のないシンプル、簡素な感じの印象を受けました。
昭和天皇のご論文が展示
また、専用船の脇にある展示ケースの中には、生物学者でもある昭和天皇がご研究なされた論文が展示されています。
ガラス越しでしか拝見できませんでしたので、詳しくはわかりませんが、4冊の書籍が見開き状態で展示されています。
タイトルを見る限りでは「相模湾における海洋生物のご研究」をなされていたことがわかります。
その他展示物
大三島海事博物館では、昭和天皇が、ご使用になられた採集船『葉山丸』や生物学研究の論文の他に、数々の海洋生物、植物の標本、全国の著名な鉱山の鉱石等ズラリと展示されています。
まとめ
今回、久しぶりにバイクツーリングで大山祇神社に参拝しました。
これまで幾度となく訪れていた大山祇神社ですが、由緒や御祭神を知れば、古代神話の時代から脈々と受け継がれてきた歴史を垣間見ることになり、これまでと見方ががらりと変わってしまいました。
また、宝物を改めて見てみると、歴史の教科書や書籍等でしか目にすることのなかった名だたる武将等が奉納した鎧や刀剣類はやはり圧巻です。
また、昭和天皇がご使用になられた採集船『葉山丸』やご研究論文がなぜ、永久保存されているかも理解できました。
時代も令和へとかわりました。
しまなみ海道を通られる際は、是非、大三島に鎮座する大山祇神社、宝物館、大三島海事博物館へ足を運んでいただければと思います。
最後までご覧いただき、ありがとうございました❢